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2012年 12月 30日

半古庵 保科倍之

【保科倍之の句碑】
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  貞享・元禄期の岸本調和、一瀬調実、享保期の大久保一林、市川和橋、安永・天明期の上矢敲氷、五味可都里、文化・文政期の辻嵐外、早川漫々、幕末・明治初期の橘田春湖など、近世から幕末・明治初期に至る約200年間における山梨県の俳諧については、その評価と研究が進められている。
  しかしながら、その反面、明治期以降大正期、飯田蛇笏と雲母の登場までの間、いわゆる正岡子規の俳句革新運動による俳諧に代わる「俳句」という用語が用いられるようになった近代俳句が成立までの間については、これまでの俳諧隆盛の影響が続き山梨県内各地において俳句は盛んであったにも関わらず、この時期の俳壇については「旧態依然たるもので、天保調の域を全く脱してはいない。啓蒙期特有の開明性や自我覚醒への志向などが認めることができない。」、「近世の蕉風俳諧のように月並調を脱しきれていない。新派俳句の甲府俳壇への実作レベルの流入は明治期後期を待たねばならなかったようである。」といった評価となっている。
  こうした評価であるがゆえに研究の対象とされていないのか、研究がなされていないからこうした評価から脱しきれないのか、門外漢には正確なところは解りかねるが、感覚的には研究が必ずしも十分とは言い切れないと考えられるところである。

  
  保科倍之は、明治期から大正初期にかけての甲府俳壇における旧派の大家であった。
  写真の句碑は、高さ1.5m、幅1mの石碑であり、現在は樹木に台座が覆われているが、台座には溶岩が使われているという。句碑には富岡敬明男爵揮毫の「寿家」の文字の下に「「紛礼な岐(まぎれなき)見ごころ清し富士の山」半古庵保科倍之」と、また句碑の裏面には門下生の名が刻まれている。
  当初建立されたのは明治28年11月23日であったが、同32年11月13日の火災で破損し、同35年4月3日に再建されたのが現在の句碑である。


【保科倍之の書簡】
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 保科倍之は本名「保科 保」、俳号に「半古庵」「倍之」「白髯坊」を用いていた。
 江戸下谷の幕臣旗本であった、武内大治郎の二男良道、信州高遠藩の磯部源内の妹である瀧の二男として天保12年に生まれている。
 保科家は武士の系統であるため、その家督は長男が継ぐことから、江戸から甲府に住み移っている。
 河野可転の門に入り俳諧を学び、山伏の修行道場である「万能院」を甲府白木町に開設し、そこで寺子屋も営むなどして教育にも関わっていたが、その傍らでは俳諧三昧にふけり芭蕉の正風である伝統俳句を鼓舞し旧派の巨匠と云われていた。
 当時は各村々に句会、吟社が設けられ、山田藍々、小沢眠石、田草川草圀らが旧派の宗匠を中心とした発句大会が設けられ、保科倍之も宗匠として発句大会の選者や山梨日日新聞の最初の俳句の選を行っている。 


【保科倍之の葬儀案内葉書】
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 保科倍之は大正3年9月13日に73歳で亡くなり、同日、左記の案内が関係者に発送されている。
 案内に記されている保科萬次郎は、明治5年12月7日に生まれた倍之の二男であり、山梨時報、峡中日報、山梨日日新聞などの新聞記者として活躍し、明治43年3月の国民新聞甲府支局の設置にあたり初代の支局長を務め、それまでの間には甲府市会議員、副議長として市政に貢献し昭和2年10月には市政功労者として表彰されている。昭和20年10月13日に疎開先の甲府市積翠寺町で74歳で没している。



【保科家の墓所】
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 甲府市朝日4丁目の円覚山浄興寺にある保科家の墓所である。



【保科倍之の墓】
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 保科家墓所の右端に建つ法号である「明教院智誉義光浄信居士」が刻まれた倍之の墓石である。



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by kaz794889 | 2012-12-30 17:54 | 山梨の文学 | Comments(0)


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