2012年 10月 21日
【篠原春雨】 (明治13年5月27日~昭和21年4月15日) 篠原春雨(本名:春治)は甲府柳町57番地(現在:中央4-9-10附近)に、呉服太物、質商を営む父長七、母トメの二男として生まれ、明治30年代に久良伎社同人となり、川柳作者となった。 明治37年7月14日には川柳久良伎社甲府支部を設立し、新川柳誌「五月鯉」を明治38年5月5日に編集同人として発刊し新川柳を提唱した。 大正3年5月5日に山梨日日新聞の社会部記者となり、この頃から同紙の川柳欄の選者となるなどし新川柳の発展・普及に努めていたが、大正5年3月13日に山梨日日新聞編集局における執務中に脳充血が突発し、その後快方に向かったものの、遺症として聴力の衰えが進みその後聴力を失っている。 大正6年3月13日に山梨川柳会を設立し、雑誌「新宝暦」を発刊、昭和18年7月には戦時下唯一の柳誌である「川柳常会」を発刊している。その後、戦時中の疎開先である北巨摩郡穴山村(現在の韮崎市)において66歳で没している。 【篠原春雨句碑】 大正6年2月21日、病に倒れ東京の病院で治療するも効果なく帰甲した篠原春雨に対し、門人の人々は本県川柳界の恩人として、篠原家の菩提寺である甲府市細工町の法華寺境内に「川柳や江戸紫に八文字」の句碑を建立するとともに、記念句集である『川柳春雨傘』を発刊した。 写真の句碑は、大正13年6月30日に改築した前述の句碑である。 【篠原春雨句碑絵葉書「表面」】 甲府市桜町8番地(現在の中央1-1附近)に居住していた篠原春雨の自筆により、長野県諏訪郡岡谷在住の者にあてて送付された、昭和2年8月11日付、甲府郵便局の消印のある左記の絵葉書の表面である。 【現在の篠原春雨句碑】 法華寺(甲府市武田1-4-34)に現在も残る篠原春雨の句碑である、大正13年6月の改築後、更に改築され句碑の土台である石組みも撤去され、樹木の陰で枝葉に覆われ、現在は句碑の全景を見るのも困難である。 【篠原春雨の墓】 樹木の下が句碑、向かって左の墓石が篠原春雨、右の墓石が篠原家代々のものである。 ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。
by kaz794889
| 2012-10-21 16:21
| 山梨の文学
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