2012年 04月 08日
【望仙寮に疎開した目黒区八雲国民学校児童】 昭和17年頃から帝都空襲に備えた防空準備が具体的に進められていく中、集団疎開が計画され、国民学校初等科児童の集団疎開、いわゆる学童疎開に関する「学童疎開促進要綱」が閣議決定されたのは昭和19年6月30日であった。 閣議決定を受け、7月7日には文部省、内務省、東京都が「帝都学童集団疎開実施要領」を共同発表し、疎開先を関東地方及びその近隣県と定められ、防空総本部が10日に発表した「帝都学童集団疎開実施細目」 には山梨県等、疎開先の県名が定められ、その後発表された「帝都学童集団疎開先県名各区割当表」により山梨県への集団疎開は麹町区、四谷区、目黒区が割り当てられている。 甲府には、市内や湯村温泉の旅館、料理屋、寺院等を宿舎として目黒区内の油面、碑、鷹番、原町、月光原、大岡山、八雲の7国民学校が8月から9月にかけて疎開している。 【望仙寮入り口】 目黒区の八雲国民学校の三年生以上の児童250名は、昭和19年9月4日、東京急行電鉄東横線の都立高校駅(現在の都立大学駅)から甲府に向け出発、同日13時38分に甲府駅に到着し、甲府市内16箇所の宿舎に分散し、9月6日には市内の琢美、春日、穴切国民学校を疎開先学校として通学している。 望仙寮は望仙閣を転用した八雲国民学校児童の宿舎の一つである。 一般的には遊亀公園内にあった望仙閣をイメージすると思われるが、公園地内にあった望仙閣の建物は、昭和18年前後に中島飛行機の軍需工場となったため、甲府市紅梅町15番地(現在の丸の内1-16)で営業し、当時は廃業していた料亭「卯月」の建物を譲り受け、望仙閣の名前で旅館を営業していた。 写真は「望仙寮」と「東京都目黒区八雲国民学校宿舎」の門札を掲げた望仙閣の門柱である。 なお、望仙閣の建物は紅梅町及び公園地内双方とも、昭和20年7月6日の甲府空襲で焼失している。 【現在の望仙寮跡】 望仙寮の児童を含めた八雲国民学校の児童は、戦況悪化に伴い甲府も空襲の標的となる可能性が高まってきたことから、昭和20年6月18日には北巨摩郡若神子村、穂足村、多麻村の寺院等に分散再疎開している。 オリオン通りのココリ附近が、かつての望仙寮のあった場所である。 ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします
by kaz794889
| 2012-04-08 13:57
| 戦時期の山梨
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