2012年 01月 14日

山梨の官選知事 2 「海江田武次」

【海江田信義(武次)の墓】
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 明治新政府は国史編纂を重要施策の一つとし、太政官正院に歴史課が明治五年に設置され、旧幕時代の藩政史、王政復古の経緯、維新後の地方行政沿革を主体とした国史編纂計画が所掌事務の一つとされ、明治7(1874)年11月には各府県に対し「歴史編輯例則」に基づき、明治7年までを対象とした資料提出及び明治8(1875)年以降は各年版の資料を作成の上、逐次提出することが指示されている。
 山梨県においても明治元年から同12年に至る間を記録した全45冊からなる山梨県史が編集され、その第一巻の冒頭には「明治元年戊辰三月十二日、東海道副総督ノ命ヲ承ケテ参謀海江田武次甲府ニ至リ国事ヲ代理ス。是ヲ本県立庁ノ始メトス。」と記されている。
東海道副総督参謀 海江田武次は歴代山梨県知事の初代として位置づけられている。
 海江田は浜松藩兵百名余を従えて甲府入りしており、官軍によるこの時期の初政はあくまで臨時軍政府といったものであり、同年4月頃まで甲府に滞在していた。
 
 海江田は天保3年(1832年)2月11日、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の次男として生まれ、島津斉興の茶頭に出仕した11歳の時に俊斎と称し、文久元年(1861年)12月には、日下部伊三治の次女・まつと結婚し、同時に婿養子となって海江田武次、信義と改名(海江田は日下部の旧姓)している。

 その後、明治3年8月には奈良県知事、明治5年に左院四等議官、明治14年、元老院議官、明治20年には欧米各国視察を命ぜられて渡航。同年子爵を受爵し翌年に帰国し、明治23年には貴族院議員となり、翌年には枢密顧問官に就任し明治39年10月27日に75歳で死去している。
 写真の海江田信義(武次)の墓は、明治40年10月に海江田の長男である虎次郎が建立している。

【海江田信義夫人 愛子・海江田家の墓】
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 海江田信義(武次)の墓の後方、通りをはさんで建立されているのが、海江田夫人と一族の墓である。
 墓域内の墓誌によると、海江田の夫人である愛子は昭和5年に73歳で、長男虎次郎は昭和46年に94歳で没していることが記されている。


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by kaz794889 | 2012-01-14 23:20 | 山梨の官選知事 | Comments(0)


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