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2011年 08月 28日

藤村紫朗の墓所再訪

【墓所全景】
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 この夏、熊本市の禅定寺にある藤村紫朗の墓所を再訪した。
 寺域の西側にある藤村紫朗の墓所は、門柱と塀に囲まれた墓所であり、門柱に残る金具を見る限りでは、当初はそこに鉄門が備わっていたようである。
 最初に墓所を訪れた17年近く前は、門柱左側の塀沿いを抜けて墓所の反対側に出られたが、左に写る木の根元が成長し、現在はそれが困難な状態である。

【墓所内からの入り口】
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 右側が前記の門柱から階段を上がった藤村紫朗の墓碑が建つ場所の入口である。
 また、左側の墓碑は後述する黒瀬家墓碑の側面である。

【黒瀬家累世之墓】
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 墓所の門柱から入ると右側に黒瀬家の墓碑、続く階段を上がった場所に藤村紫朗の墓碑が建てられている。
 藤村紫朗は弘化2年3月1日に熊本藩士の黒瀬市左衛門、登千子の次男として熊本城下坪井寺原町に生まれ、14歳の年に同じ熊本藩士であった萱野家の養嗣子となり、明治維新後に藤村姓を名乗って熊本藩籍を脱して東京府士族となっている。
 黒瀬家は藤村紫朗の父である黒瀬市左衛門が嘉永4年に没したため、実兄である黒瀬市郎助美之が継いでいたが、後に堤松左衛門、安田喜助とともに横井小楠を襲撃した際、その場に同席していたことから斬られて重傷を負って死に至った吉田平之助の遺子により、明治元年2月3日に仇を報じられ33歳で死去している。
 黒瀬家の墓は、こうした藤村紫朗の生家である黒瀬家累世の人々の墓である。

【男爵藤村紫朗之墓】
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 男爵藤村紫朗之墓と刻まれた藤村紫朗の墓碑である。
 墓前にある石製の花立てなどの諸具は荒れている状態であり、聞くところによるとこの墓所は長年に渡り風雪に任せた状態が続いているとのことである。

【墓石の側面】f0191673_9235694.jpg


 墓碑の右側側面に刻まれている、藤村紫朗の生年と没年である。墓碑には正面と右側側面以外には刻まれている文字もなく、墓域には藤村紫朗以外の墓碑は建立されていない。
 明治7年から20年3月まで山梨県令、知事を務めていたことなどから藤村記念館が建設され、現在も藤村式建築としてその名前が残る山梨県内と比較し、熊本で生まれ育ち、晩年を過ごし墓所のある地元の熊本では藤村紫朗の名前は知られていない。再訪した藤村紫朗の墓所にその実態が感じられた。
  再訪の際に熊本県立図書館に立ち寄り、室内に掲げられた富岡敬明の揮毫を目にしたため、富岡は晩年を山梨で過ごしているため、藤村紫朗とともに山梨県内では知られていることを話したところ、藤村紫朗のことはよく知らないが、富岡敬明は西南戦争当時に熊本県知事を務めていたため、熊本県内では知られている人物であるとのことであった。

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by kaz794889 | 2011-08-28 11:38 | 藤村紫朗 | Comments(0)


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