2009年 10月 03日
【信玄公かくし湯 下部温泉御案内】 南巨摩郡身延町にある下部温泉は、身延線下部温泉駅附近と常葉川支流の湯川上流附近約1㎞にわたる温泉郷である。 下部温泉の起因は、景行天皇の代、甲斐の国造、塩海足尼(シオミノソコネオ)が国内巡視の際に霊湯を発見し、その姓をとって塩部(下部)の湯と名づけたことによると伝えられている。 一般的には、武田軍の負傷兵を療養された湯といわれ、武田信玄の隠し湯として古来から広く知られている。 下部温泉は江戸時代には東河内領の下部村に属し、化政期の戸数は34戸であったという。明治11年には、常葉地区を中心とする富里村となり、昭和31年9月30日に富里村、古関村、久那土村及び共和村の一部が合併し下部町となったが、平成の市町村合併により下部町は中富町とともに身延町と合併し、現在下部温泉は身延町に属している。 なお、左の観光案内は下部温泉の旅館組合が昭和初期に発行したものである。 【紅葉の旅 「富士身延鉄道発行の観光チラシ」より】 ━「下部温泉」 吉田初三郎画伯筆━ 「温泉郷の風光」と題する山梨県内の温泉地(甲府温泉、湯村温泉、下部温泉、山梨の温泉と景勝交通図)を吉田初三郎が描いた4枚1組の絵葉書の中の一枚である。 【下部温泉案内】 下部川に沿った下部温泉郷の案内図である。 案内図の中には現在も営業している老舗旅館の名前も少なくない。 ━甲州銘湯下部鉱泉場━ 明治43年頃の下部温泉である。 明治43年4月にに発行された、田山花袋編『新撰 名勝地誌 巻二』は、「下部温泉」について次のとおり記している。 「富里村下部にあり。郡中著名の温泉にして、地は群山しょう立の中、東に河流を帯び、西北は山麓を負ふ。浴舎7、8戸あり。道路甚だ不便なれども、温泉の清潔の著しきによりて、浴客一ヵ年平均二万五千人を下らずといふ。鰍沢町よりは舟によりて福井、下山にくだり、対岸の八木沢より、常葉川に沿ひて山に入るべし。 ━甲州西八代郡富里村下部鉱泉場 大森館ノ景━ 前記の絵葉書と、ほぼ同位置から写した明治後期から大正初期に写した情景である。 ━甲州西八代郡富里村下部鉱泉場 二ノ橋之景━ 大正4年頃の情景である。 ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。
by kaz794889
| 2009-10-03 20:52
| 温泉
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