2009年 05月 30日

【藤村紫朗 没後100年】 ② 県令邸宅


【明治14年頃の書簡】
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 大阪府参事を務めていた藤村紫朗は、明治6年1月22日山梨県権令の発令を受け、僕一人を従え富士川畔に赴き1月30日の夜甲府入りしている。
 

【戸長への届出】
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 山梨着任時、甲府代官町の仮宅に居住し、居住人別として藤村の他、従者として森 丈助、佐竹作太郎、僕 片山磯吉、婢 むめ、以上4名について明治6年4月6日に戸長あてに届けられている。
 藤村らの人別の次に『別紙ノ通ニ御座候間、本紙ハ御手元ニ而可然様御認直シ被下度候也 四月六日 藤村内 佐竹作太郎 戸長御中』と記されている。

【山梨県令邸宅(手札写真)】
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 甲府常盤町(現在の甲府市丸の内1-21 岡島百貨店の東側、山梨中央銀行本店より)に建設された擬洋風2階建の県令邸宅である。
 この建物が明治8年頃に竣工すると、藤村はここに移り住んでいる。
 藤村の長男として明治3年12月4日に京都で生まれ、後に清浦内閣の逓信大臣や貴族院議員を務めた藤村義朗(幼名:狐狸馬)によれば、4歳から15歳を甲府で過ごし、徽典館初等部に入学し卒業(明治18年2月21日に徽典館中学科卒業)とともに熊本藩主細川侯嫡子の学友として英仏に留学している。
 また、父藤村紫朗の教育は厳しく、長男義朗、次男の兎羊熊の学友として3名(山梨県勧業課の片山菊渓の子息 長司、勧業御用掛の大藤松五郎の子息 酒造太郎、甲府警察署長斎田 斎の子息 孫次郎)を定め、学校以外においては学友以外との交わりを禁じ、放課後はこの5名が県令邸宅に集まり戦争ごっこや相撲に興じていた。

 藤村紫朗はこの県令邸宅に6人の子供(長男、次男、三男(俊彦)、長女(糸子)次女(安子)三女(美代子))と妻(珊)、母の家族8人と生活していた。
 なお、明治20年3月に藤村が愛媛県知事として転任後、この建物は根津嘉一郎が買取られたが引き続き県に貸与され、山崎、前田、中島、田沼と藤村以降の歴代知事が居住したが、田沼 健知事時代の明治27年3月7日に失火により焼失している。
 藤村紫朗の転任後に売却され、引き続き山梨県が貸与し知事邸宅としていたことから、県令邸宅は藤村紫朗が自ら私邸として建設した擬洋風建築、いわゆる藤村式建築であったのかもしれない。

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by kaz794889 | 2009-05-30 18:49 | 藤村紫朗 | Comments(0)


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