峡陽文庫

kaz794889.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2009年 01月 18日

藤村式建築と朝神学校

 明治初期に建築された疑洋風建築を山梨では藤村式建築と通称している。
 藤村式建築という通称は、明治6年から20年までの14年間、山梨県において県令、知事を務めた藤村紫朗が行政における施策を行う上で洋風建築を推奨したことによると言われている。
 現在も山梨県内には、睦沢学校(国重文)、千野学校(国登文)、舂米学校、津金学校、尾県学校(以上、県文)、室伏学校(市文)の6校舎が藤村式建築として残されており、いずれも文化財の指定を受けて保存されている。
 藤村式建築は学校校舎を中心に相当数の建物が明治初期県内各地に建設されている。
 こうした校舎は、終戦後まで残されていたものも少なくなかったが、昭和30年代からのいわゆる高度経済成長期頃から、残されていた建物もその役割を終えて次第に姿を消していった。

 
【朝神学校(正面)(昭和34年頃)】
藤村式建築と朝神学校_f0191673_1015290.jpg


 藤村式建築の校舎として昭和30年代まで残されていた、朝神学校(北巨摩郡朝神村(現在:北杜市明野町)に所在)について紹介したい。
 朝神学校は、明治5年の学制発布とともに開校した浅尾学校の狭隘化に伴い、明治9年9月に洋式2階建の藤村式建築として明治11年7月7日に新築落成し、同日、県令藤村紫朗臨校のもとに朝神学校として開校している。

【朝神学校(右側面)】
藤村式建築と朝神学校_f0191673_102336.jpg


 明治42年7月に朝神学校の校舎が増築されたものの、藤村式校舎も引き続き使用されてきたが、昭和23年11月18日に新校舎が完成すると、この藤村式校舎は不要となったが、新校舎の建設とともに朝神村役場も取り壊されたことから、藤村式校舎は新たに村役場として使用されることとなった。
 また、昭和25年9月1日には、朝神村を受託者として、村役場内に朝神簡易郵便局が開局し、併せて活用されてきたが、旧校舎の破損が甚だしく、また小学校の校庭が拡張されることとなったことから、藤村式校舎は取り壊されることとなり、昭和36年8月3日に入札が行われ藤村式校舎は売却され取り壊されている。

【朝神学校(左側面)】
藤村式建築と朝神学校_f0191673_1025810.jpg


 朝神小学校はその後、上手小学校、小笠原小学校と昭和50年4月1日に統合され、現在は明野小学校となっている。


にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2009-01-18 10:57 | 学校 | Comments(0)


<< 絵葉書で見る山梨 17      板垣退助の入峡と舞鶴館 >>